The Greenbriar Boys / Better Late Than Ever

Hi-Fi-Record2007-11-27

 一定の社会集団の中でリズム、メロディ、歌い方、楽器、音色の好みなどが受け継がれてきていることは、ぼくらも何となく知っている。かつて(たぶん19世紀末ぐらいまで)は、「一定の社会集団」とはすなわち「民族」という概念が成立していたので、そうした音楽を指して民族音楽という言葉が用いられてきた。もちろん今でも使われている言葉ではある。



 かつては単一民族によって構成されていた社会集団が、他民族との交流を始めるようになると、音楽にもダイナミックな変化が見えるようになる。近代の技術を得た西洋の人々が、アジア、カリブ海地域などに進出したことを発端として、そうして起きた文化の衝突がポピュラー音楽の成立基盤になったというのは、中村とうようさんの音楽理論だ。



 主としてヨーロッパ各国の移民が渡ってきて、同時に奴隷制度を内に持ちながら社会が多民族化するというプロセスをたどったアメリカも、複数民族の摩擦と共生が音楽のダイナミズムを高めてきた一例と言っていい。
 ゆるやかな民族的な集団的まとまりを形成しながら、先住のヨーロッパの音楽伝統を受け継ぐという一面を併せ持ちつつも、結果として民族音楽と呼ぶには似つかわしくない各種の要素が複合した音楽が成立した。それがアメリカ音楽の固有性だろう。
 
 
 
 ブルーグラスを聴きながら、いつも不思議な気持ちになるのが、メロディのスケールとコード感が西洋音楽的な音階と和声の感覚では整合していないように聞こえる曲があることだ。
 例えばこのグリーン・ブライア・ボーイズのアルバムでは「Train I Ride」や「Morning Train」、「Little Birdie」がそれで、おそらくそれは、もともとがフィドル・チューンから来ているメロディだからだろうと思う。
 フィドル・チューンには、コード感がない。複数のフィドルが同じメロディを演奏しながら、靴を大きく打ち鳴らす。それを聴きながら男女のダンスが踊られる。
 アイリッシュの音楽に脈々と受け継がれた音楽伝統だ。
 
 
 
 そうしたフィドル・チューンがアメリカに於いてオールドタイムやブルーグラスに持ち込まれ、バンジョーやギターによるバックアップを受けるときに、いわば無理筋のコードが当てはめられ、それが少しづつ馴染みを増していったのではないかと思う。
 キーがGにおけるコード進行で、ギターを含めた和声楽器がG-F-Gと動いて解決するフィドル・チューンなど、その典型だろう。
 ちなみにこれら3曲とも、マンドリン担当のフランク・ウェイクフィールドの作品、あるいは彼が主導する作品だ。フィドル不在のグリーン・ブライアー・ボーイズにおいては、フィドル的な音楽を持ち込む役割を果たしているのフランクのマンドリンの響きで、実はマンドリンフィドルと待ったく同じチューニングの楽器である。



 おそらくアイルランド系の音楽が、アメリカの白人系ポピュラー音楽の成立と伝統に深く関わっているのではないかとぼくは予測を立てているのだが、ここで余談も余談、ビートルズの「ペイパー・バック・ライター」のAメロにおけるメロディと和声の関係も、どうも今まで述べてきたアイリッシュ的なメロディとコード感の合っているような、合っていないような不思議な共存の関係と似ていることを思い出した。もしかするとここにもアイルランドの音楽伝統が顔を出しているのかもしれないとしたら、いかにもおもしろいなあと思う。試しに「ペイパー・バック・ライター」をフィドル・チューンに編曲したら、バッチリ、それ風になるに違いないと思うのだが。さて本当のところはどうなのだろう。(大江田信)


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