Margaret MacArthur And Family Of Marboro, Vermont

Hi-Fi-Record2006-12-13

 先日、12月9日に書いたブログの続きを考える。
 


 民謡歌手としてのフォーク・シンガーは、「私」の「歌」を「あなた」に伝えるための存在ではない。
 「私たち」が共有する遠い記憶に支えられた歌を、「私たち」の中に呼び戻し共振させる存在だ。
 


 そもそも音楽の要素である音色、メロディ、リズム、拍子、ハーモニーなどの好みは、「私たち」のものとしてそこにある。それらをごく幼少時に自然に日常の中で学習することから、「私」は音楽を楽しみ、知るようになる。
 歌詞を形づくっている「言葉」も同様だ。生まれて育ちゆくプロセスの中で、すでにある「言葉」の意味を自然に学習しながら、「私」が育まれる。
 こうして「私たち」が「私」を生み出し、「私」が「私たち」に参加する道筋が生まれる。



 「言葉」を連ねていくことによって、そこには自分なりの固有の意味をはらませることができる。そうすると「私」の詩が生まれる。
 「私」の詩が歌になると、「私」だけの表現となる可能性が生まれる。



 まるで民謡のように記憶の底に生き続け、多くの人々が口ずさむ歌を残したいというのは、SSWやロック・アーチストが音楽をやり続ける過程での真摯な願いのひとつだろうし、言い換えれば「私」の表現と、「私たち」の表現の間で揺れ動くことが、今日を生きるアーチストの必然なのかもしれない。
 過去の民謡歌手のあり方は、今日的なSSWやロックのアーチストに絶えず影響を及ぼしている。


 ここまでは、自分が忘れないためのメモとして、書かせていただきました。


 最近は、ずっとこのことを考えています。
 いま耳元で響いているは、この音色。「Margaret MacArthur And Family 」が歌うフォーク・ソング。「オー・ブラザー」以降のアメリカの新しきオルタナ・フォーキー達が作っているCDの中に投げ込んでも、もしかしたらピッタリとはまるかも知れないと思います。
 ジーン・リッチーやドック・ワトソンといった人たちと、決定的に違う香りがするのです。
 アマチュアだから? もしかしたらそうかも知れない。実は職業的な民謡歌手というあり方の自己矛盾に、無意識に僕らは気づき始めているのかも知れませんね。
 誰のためでもなく演奏される音楽の持つ大きな力に、気づき始めているのかも知れない。そんなふうに思うのです。(大江田信)


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