Margaret MacArthur And Family Of Marboro, Vermont
先日、12月9日に書いたブログの続きを考える。
民謡歌手としてのフォーク・シンガーは、「私」の「歌」を「あなた」に伝えるための存在ではない。
「私たち」が共有する遠い記憶に支えられた歌を、「私たち」の中に呼び戻し共振させる存在だ。
そもそも音楽の要素である音色、メロディ、リズム、拍子、ハーモニーなどの好みは、「私たち」のものとしてそこにある。それらをごく幼少時に自然に日常の中で学習することから、「私」は音楽を楽しみ、知るようになる。
歌詞を形づくっている「言葉」も同様だ。生まれて育ちゆくプロセスの中で、すでにある「言葉」の意味を自然に学習しながら、「私」が育まれる。
こうして「私たち」が「私」を生み出し、「私」が「私たち」に参加する道筋が生まれる。
「言葉」を連ねていくことによって、そこには自分なりの固有の意味をはらませることができる。そうすると「私」の詩が生まれる。
「私」の詩が歌になると、「私」だけの表現となる可能性が生まれる。
まるで民謡のように記憶の底に生き続け、多くの人々が口ずさむ歌を残したいというのは、SSWやロック・アーチストが音楽をやり続ける過程での真摯な願いのひとつだろうし、言い換えれば「私」の表現と、「私たち」の表現の間で揺れ動くことが、今日を生きるアーチストの必然なのかもしれない。
過去の民謡歌手のあり方は、今日的なSSWやロックのアーチストに絶えず影響を及ぼしている。
ここまでは、自分が忘れないためのメモとして、書かせていただきました。
最近は、ずっとこのことを考えています。
いま耳元で響いているは、この音色。「Margaret MacArthur And Family 」が歌うフォーク・ソング。「オー・ブラザー」以降のアメリカの新しきオルタナ・フォーキー達が作っているCDの中に投げ込んでも、もしかしたらピッタリとはまるかも知れないと思います。
ジーン・リッチーやドック・ワトソンといった人たちと、決定的に違う香りがするのです。
アマチュアだから? もしかしたらそうかも知れない。実は職業的な民謡歌手というあり方の自己矛盾に、無意識に僕らは気づき始めているのかも知れませんね。
誰のためでもなく演奏される音楽の持つ大きな力に、気づき始めているのかも知れない。そんなふうに思うのです。(大江田信)