Cisco Houston シスコ・ヒューストン / The Songs Of Woody Guthrie

Hi-Fi-Record2007-09-12

 NHK教育テレビ「私のこだわり人物伝」で放送された菊池成孔氏によるマイルス・デイヴィスの評伝を、大変におもしろく見た。
 独自の切り口からマイルスの人となりと音楽を組み立ててみせるワザに惚れ惚れとしてしまったのだが、なかでも息を呑む思いで聴いたのが、菊池氏が「聴衆を魅了しつくしたいとする子供っぽい強烈な欲望」をマイルスの音楽に見い出すとする指摘だった(この言い回し、おぼろげな記憶で書いているので、細部にマチガイがあるかも知れません)。
 気付いてみれば人前で演奏する以上、音楽家がそうした意欲を内にかかえてステージに立つことは当たり前なのかも知れないけれども、これまでそういったロジックで音楽のありようやアーチストの生き様を考えたことがなかった。


 音楽について多少マジメに考え始めたときに、僕が対象としたのがフォーク・ソングだったし、フォークをもってして、音楽の最良のあり方とするという考えに、いつしかとらわれてしまっていたのかもしれない。
 誰でも知っている歌を、村のお祭りや結婚式、集会などの場で、歌の上手い誰かが歌う。彼、あるいは彼女は、その場にいる誰もが知る歌をたまたま歌っているに過ぎず、もちろん歌の上手さを称賛される喜びもあるだろうが、共同体の絆の確認や再創造として歌が機能することに、自身の存在理由を見出す。時には聴衆も自然に唱和する。
 これがフォーク・ソングというものだ。
 つまりこの場には、「聴衆を魅了しつくしたいとする強烈な欲望」をかかえる表現者はあり得ない。


 フォーク・ソングの何たるかを意識しながら活動を続けるシンガー達には、どこかしらそういう立ち振る舞いが身に付いている。
 シスコ・ヒューストンの歌声にも、人々に共有されている歌を歌う喜びが滲んでいる。いろんな悪さも含めて長き旅をウディ・ガスリーと共にした人だ。
 フォーク・ソングを歌いつつ、いつの日か自分が編み出して歌ってきた歌が、まるでフォーク・ソングのように人々に扱われる。それをどこかで望んでいる、今日のフォーク・シンガーとはそうした存在ではあるまいか。シスコの歌うウディ・ソングを聴いていると、こんなことを考える。


 ところで菊池成孔氏の語り口にクラッときた僕は、さっそく彼の本を買い込んで読み出し始めた。
 考え方のスタイルやレトリックにはじめはちょっとビックリしたけれども、近頃では彼の本を読み進むコツをつかんだ気がする。
 彼の文章には、読み進む僕の中で、理解を早めるために古い言辞に言い換えて良い言葉と、決して言い換えてはいけない言葉がある。
 音楽家の文章だなと思うのだ。(大江田信)


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