Rolf Cahn ロルフ・カーン / California Concert With Rolf Cahn

Hi-Fi-Record2007-10-20

 ボブ・ディランの自伝を読んでいると、フォーク・ミュージックがどれほど彼に影響を与えたのか、彼の目と耳にどれほど魅力的なものとして響いたかが、繰り返し書かれている。
 大学時代の自分を振り返る章では、フォーク・ミュージックについて「そこで生きることは非常に現実的であり、実際の生活よりも真実味があった」と述べられる。ここで言われる「生きる」とは、フォークの世界を想像力とともに繰り返し歩き回り、考えることを意味している。



 ディランが述べるフォークとは、ポピュラー・ミュージックのジャンルのひとつとしてロックやジャズと並べて使われる「フォーク」ではなく、日本語で言ういわゆる「民謡」のことだ。
 このあたりのディランが語るニュアンスは、ごくフツーの音楽ファンに、なかなかうまく伝わらないのではないかと思う。今に生きている日本の「民謡」が、日本に暮らすぼくらの目前にはなかなか見えてこないからだ。このところよく耳にする沖縄出身のミュージシャンの自前のポップスと、彼の背景にある沖縄民謡との関係を思い起こすこと、かろうじて助けになるかもしれないとも思うが。



 ぼくはアメリカのフォークが好きで、いまだにこだわっている。レコードを買ってきては、ハイファイの店頭に並べている。
 なんとかうまくフォークの魅力やその面白みを伝えたいと考えてるうちに、そうだ、フォークって、まるで「落語」じゃないかと、ふと思った。



 落語のストーリーの舞台は、多くは「昔」である。それも明治以前。そんなに昔の話を、ぼくらは暗黙の了解のもとによくわかって聞いている。
 アメリカのフォーク・ソングの主人公たちが、時に超人的な力でハンマーをふるって岩を砕いたり、罪を犯して絞首刑にされることを、ああ、そう、そうと思いながら聞いているのと似ている。
 社会を人々と共に生きること、その際の知恵やマナーがそっと説かれていることも、落語とフォークの両者に見いだされる共通点だろう。
 「そこで生きることは非常に現実的であり、実際の生活よりも真実味があった」とするディランの言葉を、落語に当てはめてみても、それほど場違いとはならないのではあるまいか。
 テレビドラマが取り上げた効果もあって、ちょっとした落語ブームだと言う。寄席が若い聴衆で満席になることもあると聞く。落語家たちの不断の努力に思いが至る。


 ロルフ・カーンは、ディランよりもひと世代、ふた世代上のフォーク・シンガーだ。
 ジャケット写真でまるでクラシックの奏者のようにギターを抱えているのは、彼がフラメンコ・ギターに堪能なアーチストだからだ。西海岸のロスアンジェルス界隈で活動を続けていた人だが、ギターを教えにはるばる東海岸のボストンまで出向いたこともある。
 骨太で無頼な語り口が聞こえる。歌われているブルースの主人公と、彼の声が重なって聞こえてくることもある。
 ロルフ・カーンもまたフォーク・ソングを歌いながら「そこで生きる」人だったのかなと思うと、なんだか楽しくなるのだ。(大江田 信)
 


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