Eydie Gorme イーディ・ゴーメ / Blame It On The Bossa Nova
「東京人」という雑誌がある。
東京にまつわるあれこれを、古今とりまぜて様々に描き出す月刊誌で、このところ毎月楽しみに手に取っている。
最新号を手にして、毎月の特集ページを繰るよりも先に読むコラムがある。嶋譲さんが連載されておられる「ディープ・リスニングのすすめ」がそれで、クラシックからポップ・ボーカル、ロックまで、さまざまユニークな切り口とともに音楽が紹介される。毎号、毎号、記事中で文字のカタチに起こされる音楽を思わず聴きたくなるという点で、ぼくには蠱惑的なコラムだ。
8月号ではイーディ・ゴーメのアルバム「Blame It On The Bossa Nova」を取り上げ、そこに収録された「ムーン・リバー」の素晴らしさについて、詳細に書かれていた。
そういえばと思い出して、ハイファイの店頭に置かれているアルバムを、レジ下のターン・テープルに載せて冒頭から今一度聴き直し始めた。雑誌を手にして。
嶋さんはイーディ・ゴーメがどのようにして「ムーン・リバー」を歌うのか、詳細に記されている。「歌詞が旋律を就職する音楽ではない。旋律が歌詞を物語る音楽である」としつつ、彼女のボーカルのさまを「ミニマルなシンフォニー」と文字に転化してみせる。
そうした指摘も興味深いが、同時にそれを可能とする秘密が、ヘンリー・マンシーニの書いたメロディに込められているとする指摘が、僕には驚きだった。
映画「ティファニーで朝食を」の劇中でオードリー・ヘップバーンが歌うために書かれたこの歌は、声域が狭いオードリーが歌うことを前提としたため、1オクターブ以内という制約が課されたという。
実際は1オクターブにプラス1音の音域で書かれたこの曲、口ずさんでみるとそういえば確かに音域が狭い。
その狭さに、今まで気付かされなかった。
こうして文章を書きながら、イーディ・ゴーメの歌う「ムーン・リバー」の始まりを僕は待っている。
レコードをB面にひっくり返してしばらくして、4曲目に「ムーン・リバー」は収録されていた。
いま始まった。
ボサノヴァにアレンジされた「ムーン・リバー」。Aメロ部分は、軽いフェイクを持って歌われ、そしてイーディ・ゴーメもそれほど、押し出しをしてこない。
思いもかけない展開を見せるヴァース部分。ああ、まるで虹から転げ落ちるしぶきのように、メロディが飛び込んで来る。歌に力がこもっている。
思わずレコードを止めて、そのさまを胸の中で反芻する。
故ある出来上がり方をした原曲の秘密、ユニークにして説得力のある解釈を披露するシンガー、そしてそれらを読み取る感性みなぎる文章。
その3つをひとまとめにして受け止めた。とても楽しい体験だ。(大江田信)