Mantovani マントヴァーニ / Waltzes of Irving Berlin
アルバムを紹介するコメントに「こうして聴いていると気付くのは、マントヴァーニの演奏ではテンポが揺れます」と、ぼくは書いた。
いま改めて聴き直してみても、テンポにゆるやかな緩急があることがわかる。
続いてこう書いた。「ダンスバンドがダンスのための伴奏を意図して一定のテンポを必要とする演奏だったとすると、マントヴァーニの場合はリスニングのためという意図が、内包されているのかもしれません」。
書きながら、もしかしてこれってささやかな発見かもしれないと思った。
ダンスバンドの音楽を好まない人は、テンポが一定でつまらないこと、音楽的な冒険がなされないことなどを、その理由に挙げる。確かにそれは一面では当たっている。
アドリヴをするなどもってのほか、一定の形でまとまっていなければ大きなスペースで多くの人が踊るダンスの愉しみを供するには向かない。それが純粋に音楽と対峙したいとする耳には、魅力に乏しいものと聞こえるのだろう。
一方でポピュラー音楽は、絶えずダンス・ミュージックとしての側面を携えながら発展して来た。ジャズ、ロックンロール、ディスコ、ヒップホップしかり、タンゴやフラメンコ、ハワイアンだってそうだ。
それが音楽の広がりと消長に深く関わって来た。
ダンス・ミュージックとして用いられることから、一定の距離を置くこと。それがポップス・オーケストラにおけるアレンジのひとつの美意識としてあり得ることを、マントヴァーニの音楽が物語っている気がするのだが。
さて本当のところはどうだったのだろうか。それをとっても知りたい。
こうしたイージー・リスニング系のポップス・オーケストラ作品が50年代から60年代にかけて大量につくられ、それがまた一定のビジネスになったからリリースも続いたのだろうといつも思いつつ、いったいどのような人たちが、どのようなモチベーションを持って、購入したのだろうということが、気になる。例えばマントヴァーニの場合はどうだったのか、そうしたことがらを解き明かす資料が欲しい。
日本におけるイージー・リスニング音楽は、有線放送が無かった時代の喫茶店文化だったとする説がある。LPレコードは、喫茶店の環境づくりに必要アイテムだったとするものだ。
確かにかつてTBSの前にあった今は無き喫茶店、一新では、素敵なイージー・リスニングのアルバムが一日中、プレイされていた。(大江田信)
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