Ry Cooder ライ・クーダー / Into The Purple Valley
こういうアルバムを聴いていると、音楽ジャンルっていったい何なのだろうと思う。
ジャズやらクラシックやらポップスなどと、その音楽の固定物(100年以上の大昔だったら楽譜。ここ25年くらいはCD。その前はレコード)を売ろうとする人が、売りやすくするために使う言葉なのかもしれない。買う方も、そのほうがとりあえずは買いやすいだろうし。つまりは、寄りかかるための言葉ではないか。
じゃあ音楽家がクリエイティヴであるためには、ジャンルという考え方は必要ないのかというと、そうでもないはずだ。
優れたカヴァー・ヴァージョンには、どこかしら暖かいパロディの精神が隠れている。カヴァー・ヴァージョンを作るときに(実はジャズの多く、イージーリスニングのほとんどはカヴァーだとも言える)、音楽スタイルやひいてはジャンルの考え方が音楽家の頭にもたげるのではあるまいか。批評的な感性が彼を動かしているのではないかと思う。
で、ライ・クーダーの「Into The Purple Valley」。
このレコードが面白いのは、パロディではないからだ。
ライ・クーダーは過去のアメリカ音楽の古い遺産を、好んで演奏した。これは彼のそうした時期の作品。
かつてこのアルバムのオリジナル・ヴァージョンを集めて聴いてみたことがあった。例えば「On A Monday」は、レッドベリーのオリジナルとライ・クーダーのヴァージョンとは、まるで別物のように聞こえた。オリジナルとの違いがすぐには測れないほど、そのふたつには距離があった。
彼が用いる奏法の数々、たとえば本来はアコースティック・ギターのフィンガーピッキングだったものをエレキに置き換えた奏法や、ヤンク・レイチェルが用いてきたマンドリンの奏法の発展型などは、オリジナルとの間の距離を開けるために、用いられているのではない。
オリジナルを思い出させることを目的としていない、またもうひとつのオリジナルが、ここで提示されているのだと判ったのだ。それがライ・クーダーの音楽家としての意思なのだろうとも思った。
そうたらしめている最も大きなモノは、リズムだ。
ロックンロールというリズムの新しさが、このアルバムの創造性を貫いている。
たぶん、このとき、1972年の時点ではロックはまだジャンルではなかったに違いない。(大江田信)