Jack The Lad ジャック・ザ・ラッド / It’s Jack The Lad
引き続き、今日もブラック・ホークにまつわる思いを記してみたい。
「渋谷百軒店ブラック・ホーク伝説」の98ページに、「1977年のマレイ・マクロクラン事件」と題するエッセイが掲載されている。執筆は、浜野サトルさんだ。
ここで浜野さんは、マレイ・マクロクランにインタビューをした松平さんが引き起こした「事件」について、触れている。松平さんの言葉を、大江田の文章を通して紹介しておられるので、ついでといってはナンだけれども、ここでその全文をお読みいただきたい(下記をクリックしてください)。
以上が「事件」の前段と、それにまつわる僕の感想である。
「音楽は音楽家の側にあるのか。それとも聴衆の側にあるのか。音楽家と聴衆の幸せな蜜月時代とは、いったい何なのか」と、ぼくは文中で問うている。その答えの一つは、松平さんがブラック・ホークを辞するに至る過程の中の、イギリスのトラッド音楽に向かった筋道に隠されているのではないかと改めて気づいたのも、「渋谷百軒店ブラック・ホーク伝説」のおかげかもしれない。
歌が人々のものとなる場所と時間。
松平さんはそうした幸せを、イギリスのトラッド音楽の中に見いだしたのだろう。「ブラック・ホークの選んだ99枚のレコード」においてJune Taborに与える賛辞も、トラッドについての一連の文章を彼に書かせた深い乾きも、そう考えればうなずけるものとなる。
紅茶を振興する広告キャンペーンの内容を、考えている。
ずいぶんと久しぶりに、彼の勤務先の制作プロダクションでお会いしたときのことだ。松平さんはそう言いながらコーヒー・メーカーのポットにたまっているコーヒーを、マグについで僕に差し出した。
紅茶は、こういう具合に、いっぱい入れておいて、がぶがぶ飲むという訳にいかないんですよねぇと言う。そのあとに、かくのごとく紅茶を含むイギリス生まれの文化は、面倒なものということになっちゃって、と付け加えた。いや、これはぼくの曖昧な記憶による創作かもしれない。もしかすると付け加えたのは、僕だったか。
暖めたミルクと、濃く入れた紅茶を混ぜ合わせて飲む。
そんなときに、こんなレコードはどうだろう?
そしてもうひとつ。「事件」のその後の顛末について、「1977年のマレイ・マクロクラン事件」の文末で、浜野さんが触れておられる。
この事実は、ぼくはこうして読むまでしらなかった。
詳しいことは、どうぞ同書を手に取ってご覧いただきたい。(大江田信)