Amarlia Rodrigues アマリア・ロドリゲス / The World’s Greatest
先日、ファドのライヴを聴く機会があった。
ライヴに先だって、ファドについての解説があった。最近の研究ではファドはポルトガル生まれの音楽ではなくて、ブラジルで生まれたものがポルトガルに伝わったものとわかってきたこと、ファディスタ(ファド歌手)は女性ばかりはなくて半数以上が男性だということなど、ファドの様々を知った。目から鱗だった。
もちろんそこでもアマリア・ロドリゲスの話が出た。
ファドを聴かせるカーサ・デ・ファドでは、2年ほど修行してから表舞台に出ることになっているのが通例のところ、アマリア・ロドリゲスはデビュー3日でそれを果たしたという。
新人歌手が歌う地下室でアマリアが歌っていたところ、客のすべてが地下に降りて行ってしまって、本来の客席が空っぽになってしまったからだそうだ。
後にも先にも、こんなデビューを果たしたファディスタはいない。
アマリアの歌手活動は、軍事政権下のポルトガルだった。歌詞に時の政権に仕える意識が働いていたことから、1970年代半ばに民主化された以降のポルトガルでは、批判にさらされて干された事もあったと説明された。ファドそれ自身が、隅に追いやられた時期もあったという。
最近のファドは政治的な意識から解放されて、自由な表現が行われる音楽となっているとも説明がくわえられた。
そしてファドのライヴを聴いた。
コードの流れ方、自由に立ち止まる歌のテンポ、声の張り方、ギターの合いの手の入れ方など、どこかで聴いたことがある音楽のように思った。初めてという気がしなかった。
しばらくして、ぼくの中で長谷川きよしという名前が浮かび上がって来た。
初期の彼の音楽をホセ・フェリシアーノと聴き並べていたけれども、それよりも、ずっとずっとファドが持つ深い情感に近いのかもしれない。ひらめきのように、そう思ったのだ。
ファドを聴きながら、ぼくはかつて繰り返し、繰り返し聞いていた長谷川きよしの音楽を思った。人生のどこかでファドと出会う事が予定されていたかのような、不思議な気持ちになった。
はじめでライヴを聴いた音楽なのに、ぼくの中に既にある音楽だったのだ。
今なお最高のファディスタと呼ばれるアマリア・ロドリゲス。ハイファイの片隅に在庫していたレコードを、いま改めて、繰り返し聴いている。(大江田信)