Pat Donohue パット・ドノヒュー / Manhattan To Memphis

Hi-Fi-Record2008-10-24

 先日の日曜日の夕方、AMラジオ810キロヘルツのAFNを聴いていたら、耳馴染みのある声が流れて来た。
 「ミネソタのセント・ポールから放送中のプレーリー・ホーム・コンパニオン」というコメントが聞こえる。声の主は、ギャリソン・キーラーだった。
 プレーリー・ホーム・コンパニオンは、2時間の生放送番組。偶然にこの後半、1時間分を聴くことが出来た。


 この日のプログラムがそうだったのか、いつものことなのかは分からないけれども、番組の多くがキーラーの語りと、語りからそのまま歌になって行くような音楽部分が構成された進行で、古いアメリカのフォーク・ソング、ジョン・ヘンリーをキーラーが歌っていた。ああ、ジョン・ヘンリーだと思いながら聴き始めると、歌が進むにつれ歌詞の大部分をキーラーが書き換えていることに気づいた。なんとラップ・トップ・コンピューターを持つキャラクターが登場する現代版になって、これには驚いた。


 キーラーの語り口は、もごもごとしていて、決して派手でダイナミックなものではない。アメリカの田舎町にいけば会うことが出来そうな、どこかのパブの隅でクダを巻きながら長い時間に渡ってビールをなめているオヤジ、そんなキャラだ。
 グダグダと話し、ちょこっと歌う。こちらもつい、ダラダラと聴く。番組の最後のところでやたらとキュートな可愛い声の女性シンガーの歌が流れたのだが、名前を聞きそびれた。残念だ。


 最後の最後のクレジットのところで、キーラーが演奏をしていたミュージシャンの名前を読み上げた。
 ギターは、パット・ドノヒューだった。
 ああ、まだ彼はこの番組の常連出演者なんだなと思った。たしか、レギュラー・バンドのバンマスのはずだ。映画「今宵、フィッツジェラルド劇場で」でも、しっかり登場していたっけ。



 このアルバムは、彼のジャズ的な側面が浮かび上がっている作品だ。
 フォークとジャズとブルースとカントリーが、彼の体にすっぽり同居している。さらっとギターを弾きながら、さらっといなせに歌う。身に付いている音楽が、流れてくる。



 いわゆるジャズの愛好家からは、評価されないのかもしれない。しかしジャズとは、こういう風にして音楽家の体の奥深くに棲み着いているものなのだということを、気取ること無く証しているドキュメントのような作品でもある。
 ぼくは、そういう風にして聞こえてくるジャズが好きなのかもしれない、と思う。(大江田 信)



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