V.A. ジム・ルーニー、ビル・キース他 / Banjo Paris Session

Hi-Fi-Record2009-07-08

 このところアビゲイル・ウォッシュバーンとスパロウ・カルテットによる同名アルバムをよく聞いている。


 メンバーは、バンジョーアビゲイル嬢の他、チェロ奏者のベン・ソリーバンジョーのベラ・フリック、フィドルのケイシー・ドリーセンによる編成。ブルーグラス+クラシック的な音楽を演奏していて、アルバムの半分近い曲がペンタトニック的な5音階のメロディが素材となっている不思議な興趣のアルバムだ。
 それらのメロディがもたらすある種の懐かしさのようなもの(かつて20世紀前半にアメリカの一部の現代音楽家が試みたものと似た響きがある気がする)も興味深いのだが、ここに収録されている典型的なブルーグラス・スタイルの「Banjo Pickin' Girl」に、ぼくはコロッと殺られてしまった。



 恐らく意図的に配されたものだろう。ブルーグラスから遠い風味のものがほとんどのアルバムの中に、ポッと放り込まれたように置かれているからだ。
 典型的なブルーグラスサウンドと言いつつも、実はバンジョー二人とフィドル、チェロという編成がブルーグラスに用いられることは、まず無い。
 そのため、よく聞くととてもおもしろいことが起っている。



 たとえば通例のブルーグラス・バンドでマンドリンが受け持っているバック・ビートをここではフィドルバンジョーが受持ったり、バンジョーフィドルが歌バックのオブリガードを順に弾いていくところに、チェロがフレーズを弾きつつすっと入って来たりする。通例で用いられるウッドベースでは、こうしたことは起き無い。



 こんなことを面白がるのも、それはブルーグラスの楽器演奏におけるルールを僕が知っているからだろう。
 ブルーグラスには、それぞれの楽器の持つ役割がある。演奏する側も聴く側も、その点を暗黙のうちに理解している。
 楽器の用いられ方に役割があり、それがおおよそ決まっている、それは確かだ。だからといって演奏が不自由になる訳ではない、ということを、ぼくは図らずもアビゲイル・ウォッシュバーンとスパロウ・カルテットが演奏する「Banjo Pickin' Girl」から聞き取った気がした。
 決められたことがらをさりげなく守っている彼らの態度に、ぼくはウィットを観じたのだ。
 「役割がある」ことを巡るおもしろさ、を思った。



 ブルーグラスは、フランスにも飛び火している。
 これはフランス人アーチストのセッションに、ビル・キースとジム・ルーニィが加わって録音されたもの。ここまでの文意に則って言うならば、そしてフランス人アーチストたちについて言えば、「役割」を全うすることに邁進している演奏となるのかもしれない。まっすぐに一生懸命だし、"勉強の成果を披露しています"的な雰囲気も無くもない。
 しかしだからと言って、演奏に自由な響きが無い、とは言えない。
 楽しそうでいいなあと、久しぶりに引っ張りだして聞きながら思う。役割を全うしようとすることが、どこかで自由につながっていくのかなと、ふと思ったのだった。(大江田 信)


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