Rita Reys リタ・ライス / Sings Burt Bacharach

Hi-Fi-Record2009-08-08

 向田邦子さんの本はまともに読んだことも無いのに、「向田邦子の手料理」だけは、買って持っていた。結構、熱心に読んだ。簡単に作れる料理が多いと自ら称していて、確かにその通りなのだが、そこには料理のセンスが横溢していた。食器の選択もいい。そして酒好きの気持ちを、よくわかっている、と思った。
 一時期、結婚する女友達には、お祝いと称してこの本を贈った。オトコは、なんだかんだ言って、やっぱりこういうお惣菜が好きなのさと新妻に言いたい、そんな気持ちもこもっていた。余計なおせっかいだったかもしれない。


 毎月読んでいる「東京人」の今月号は、向田邦子久世光彦の特集で、「寺内貫太郎一家」で主演を務めた小林亜星のインタビューが掲載されていた。
 東京の下町のつつましい家族生活を描くこのドラマに、たびたび登場する廊下の雑巾掛けのシーン。何事も無いような雑巾掛けのシーンが、丁寧に撮影され、そしてさりげなく物語の織り込まれる。これが、日々の幸せを表現する。
 この「幸せ」を理解できて表現出来るのは、決して幸せな日々を過ごしている役者ではないと久世さんが言っていたと、小林さんが巧みな口調で述懐する。
 番組の撮影が始まる頃、小林さんは奥さんとの離婚協議の最中で、樹木希林さんも内田裕也さんとのトラブルを抱えていた。
 そういう役者が演じるから、幸せの表現が出来るのだと語っていたのだと言う。


 同感だなどというのは、余りにも僭越なのは十分に承知の上で、その通りだと思う。そして歌の場合も、同様だと、ぼくは思う。
 歌を歌うのは、不幸せな人の心だ。幸せな場面を描く歌、あたかも幸せそのものを描いているような歌が歌われる時でさえ、それは希望や願いの表明である。

 幸せな人は、歌を必要としない。心を埋める歌を歌う必要がないのだ。


 リタ・ライスの歌う「House Is Not A Home」を聞きながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。なにがHouse を Home たらしめるのか、歌詞が少しづつ描き出していく。(大江田信)


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