Chet Baker チェット・ベイカー / Chet Baker Sings

Hi-Fi-Record2009-09-26

 スタニスラフスキー・システムと言う言葉がある。
 ロシアの演出家であるコンスタンチン・スタニスラフスキーが唱えた演劇理論を言う。


 例えば、ここにとある中小企業の社長が登場する芝居があるとする。寅さん映画に登場する朝日印刷のタコ社長を思い出してくれてもいい。仮に、ああいう社長が登場すると仮定する。
 その社長の会社はどれくらいの規模のものか、どういう商売をしているのか、従業員はどれくらいいて、そのような地域にあるのか。社長には家族があるのか、いるとしたら妻はどのようなキャラクーターの人物で、彼女と社長とは円満な関係なのか。彼には子供はいるのか。そもそも彼は周囲からどのように思われ、また彼は周囲とどのように関係を持っているのか。
 そうしたことを、出演者や演出家など舞台関係者が徹底的に議論をして、徹底的に体にしみ込ませて演技をするという思想、それがスタニスラフスキー・システムだ。
 いわばリアリズム演劇の基礎理論。日本の新劇運動にも大きな影響を残している。


 30年以上も前のこと、朝比奈尚行さんと演劇の話をしたことがある。
 朝比奈さんは、自動座という演劇集団を率いて活動をしていた。その当時で言うところのアングラ劇団、今で言えば小劇場タイプの劇団ということになるのだろう(現在は時々自動を率いる。これが最高の音楽集団なのだ)。
 彼の演劇論は、全く違った。


 例えば大江田クンが舞台に上がるとすると、例えばボクはキミにXXXXの役を与えるわけ。"役"というか、立場と言うか、機能と言うか。
 すると大江田クンは、それをこなそうとする。するうちになんだかたまらなくなって、突然に怒りを表明したりする。または余りにも自分にハマっていることが嬉しくて、すごく喜んでもいい。そして、舞台の上で日常ではあり得ないくらい爆発する感情を表現することになる。
 役と自分とが葛藤したり、バッチリはまったり。そういう風にして舞台にドラマを起こすのが演出家の仕事。大江田クンを表現させるためのきっかけを与えるワケだ。


 肝心のXXXXの所で彼が何て言ってくれたのか、残念ながら忘れてしまった。小心な役人って、言っていたかもしれない。それはともかくとして、この話を聞きながら、ぼくはうっと唸った。
 舞台の上にドラマが生まれること。想像によるキャラクターが想像の上で動くのではなくて、役者自身のうちに巻き起こるエネルギーを起点にして、他の役者とからまりながらドラマを巻き起こして行くこと。
 演じる本人のうちにエネルギーを巻き起こさせることが、演出家の仕事。つまり本人が、本人を演じてしまう場面を作ることが、本意なのだ。
 そういう演劇論と、ぼくは彼の話を聞いた。


 スタニスラフスキー・システムが、本物らしさを求めるとしたら、朝比奈さんの理論は、始めからそんな"らしさ"などを求めない。
 スタニスラフスキー・システムでは、"何が本物なのか"を議論する呪縛から逃れられないとすれば、朝比奈さんの理論は、始めから本物として始まっている、と思った。


 この時に感じた衝撃が、今も体のどこかに眠っている。
 ぼくは芝居の専門家でもなんでもないので確信は無いのだが、新劇の時代と、その後の時代の芝居を分ける分水嶺が、朝比奈さんの言葉のなかに潜んでいると思えてならない。


 そして、おそらくそれは芝居にとどまる話ではない。人が"表現する"ということの基本のところに、知らず知らずのうちに入り込んで来ている、と思う。
 音楽にも同様だ。


 音楽が与えてくれる舞台の上で、本人が本人を演じてしまう、というということ。
 

 チェット・ベイカーの歌がどうしてぼくらの気分にフィトするのか、こうして一週間を経った今も、まだ考えている。(大江田信)



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