The Crystals クリスタルズ / He’s Sure The Boy I Love

Hi-Fi-Record2009-09-30

 前回の続き。
 「本人が本人を演じてしまう」ことについて、考える。


 「本人が本人を演じてしまう」という字面は、ちょっと変だなと思われるかも知れない。「自分は演じるものではないよ、いつだって自分は自分だろ。当たり前じゃないか」と怒られそうな気もするが、世の中は、松岡修造や森田健作だけで出来上がっている訳ではない。


 人前で何らかの発言をして、後味の悪い思いを持ち、あのとき、あんなことを言わなければ良かったという気持ちになることは、誰でも経験している。いつもだったら、彼女にあんなことを言わないはずなのに、どうして言っちゃったんだろう、あの時の自分はどこかおかしかったんだ、そう思うことにしよう。こう考えて、とりあえず自分の気持ちを収めることにした。そんな経験、誰しも持っていることだろう。


 また、こんなこともある。
 今の自分は、本来の自分ではない。本来の自分が為すべき仕事は、これではないはずだ。もっといろんな可能性にトライして、そして自分にあう仕事を探そう。今の自分は、可能性を封じ込められている、と思う。


 90年代の末頃か、または今世紀に入った頃からか、「自分探し」という言葉が広く用いられるようになった。自分の可能性を探して、前向きにトライすることを肯定する言葉として登場し、用いられた。とりあえずやってみよう、そうすればもっと自分らしい自分になれるかもしれない、という発想に基づく言葉だ。


 といっても現実には、なかなかそう簡単に問屋は降ろさない。そうこうするうちに、「自分探し症候群」を併発した。「自分探しの迷路にはまって抜けられない」人たちだ。周囲から見ると先の無い迷路にはまってしまっていると映るのに、本人はあくまでも前向きなトライと信じて、相談を持ちかけたりする困ったサンが登場した。設問には間違いが無かったりして、相談された側は二重に困惑する。


 「自分探し」と言う言葉も、使われ始めて十年もするうちに、その美名がだいぶはげ落ちた。
 それにしても「自分探し」という言葉には、「本来の自分」と「そうではない自分」の二つがあることが前提になっている。複数に存在する自分が認められている。
 それは何時の頃から始まったことなのか?


 先日のブログに書いた朝比奈尚行さんの演劇論に話を戻す。
 スタニスラフスキー・システムは、「自分」の存在に疑問など差し挟む余地のない時代のものだ。
 朝比奈さんの方法は、どこかに隠れてしまっている自分を、劇的な方法で引き出すことを目している。「自分が見えない時代の演劇論」とでも言えば良いのか。


 ひとまず今日はここまで。


 自分探しから、はるか遠くにある音楽。それがロックンロールだ。
「ボクがボクであること」「ワタシがワタシであること」を、高らかに宣言する歌と言い換えても良いのかもしれない。
 その健やかさ、その強さ、そのまばゆさが、ロックンロールの魅力そのものなのだ。
 ダーレン・ラヴの歌声を聴きながら、あらためてそう思う。(大江田信)


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