Mahalia Jackson マヘリア・ジャクソン / What The World Needs Now

Hi-Fi-Record2010-01-10

 昨日の続き。


 昨日のブログで中野翠さんのコラムから引いた。

 
「久世さんは好きな対象の前に自分をそっくり投げ出すことができる人だった。久世さんに較べると私は批評的、と言えば聞こえはいいが、どこか自分への執着を捨て切れない、小ざかしい人間なのだった」。


 という一節だ。
 実はこの一文の前に、中野さんはこんな文章を引用している。
 福田恆存太宰治論にある一節という。


「元来、ぼくは長所をほめ、そのあとでぬかりなく弱點を指摘して引きあげるといふやりかたがきらひである。みみつちく、貧乏くさくてやりきれないのだ。そんなことをするくらゐなら黙っているがよい。徹底的に愛するか、徹底的に憎むか、そのゐづれかだ」との一節だ。
 

 福田恆存の意を正確に受けとるには、彼がいつの時点でこの言葉を記したのかなど、理解に相応の手続きを要するのだろうと思いつつ、読みながらふと、なるほどと合点した。前半部分には同感だ。だがしかし作家の作品を愛するとしたら、「徹底的に愛するか、徹底的に憎むか、そのいづれか」の方法しか無いのだろうかと、思いとどまった。比喩としては間違いではないと思うが、全くその通りだとは首肯しにくい。


 この中野翠さんの文章は、久世光彦向田邦子を特集した雑誌「東京人」(2009年9月号)に掲載されたものだ。
 対象がこのふたりとなると、これほどに密度の濃い文章が集まるものかと驚かされた一冊だが、そういえば向田邦子全集の第一巻の付録に掲載された爆笑問題大田光による論考も面白かった。向田邦子が小説で吐いた毒に比べたら、自分たちがテレビで語っているものなど、取るにたらないとあった。


 音楽を聴いて感動するとき、その気持ちは誰と交流しているのだろうか、なんて昨日からずっと考えている。答えの無い問い、あるいは答えがいくつもある問いを考えてもしょうがないのだが。音楽とは、誰のものなのか。演奏家のもの? 作家のもの? 聴き手のもの? それとも、音楽の神さまのもの?
 

 マヘリア・ジャクソンの歌声を聴く。
 神に向けて愛を歌い上げる。聴いているうちに、大きくて深くて、おおいなるものに包まれる。
 こうしてたまに、いいゴスペルを聴きたくなることがある。(大江田信)


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