Franck Pourcel et son grand orchestre / New Sound Tangos
昨日の続きを少し。
レコードのジャケットにアーチストが顔を出すようになるのは、レコードの歴史が始まってから大分たってからのことだ。
1920年代から30年余のSP時代の間は、シンプルな外袋に入れられて販売された。
ブック・スタイルのアルバム装丁になってから、表紙部分にアーチスト名やタイトルなどの文字がタイポグラフィで表現されたり、音楽世界を描き出したグラフィックが用いられたりとバラエティが増えるが、アーチスト写真そのものが本格的にジャケットに刷り込まれるようになるのは、おそらくLP時代になってからのこと、それも1950年代中期以降のことと思う。
ただしLPアルバムの時代になっても、どのアルバムにおいてもアーチスト写真が採用された訳ではない。
アーチストの存在感が、音楽を聴くこと、あるいは売ることにおいて、どれほど必要とされるのかということと関係していたのだろうと思う。
アーチスト写真様式のジャケットが登場し、ほどなくレコードのジャケットが、アーチスト・プロモーションのメディアとなった。
自らの写真にこだわるアーチストも登場する。
カラヤンは、写真を写される際には片側からの撮影しか許さなかったらしい。レコードを手にした聴き手は、カラヤン自身が許したカラヤン像を見ながら音楽を聴くことになる。
で、突然ながら、フランク・プウルセルのこのアルバム。
イージーリスニングというジャンルに慣れていれば、写真に写る彼女が演奏する訳でも歌う訳でもないことはわかる。彼女は、ピンナップガール。
こうした手法のアルバムは、数多い。コーラス・アルバムを数多く作ったレイ・コニフは、自らの奥様をアルバム・カバーに登場させている。
もちろんのこと、そのほとんどが女性。若く、美しい女性たち。
ただしこの種の手法が、すぐにユーザーに伝わる訳ではない。そんな経験をしたことがある。
その昔、ぼくがレコード会社でプロモーターをしていたころのこと。
とある日本のロックンロール・シンガーのアルバム制作に際し、彼が歌いかけている女性像を想定してジャケットがデザインされたことがあった。つまりジャケットに登場するのは、美しくセクシーなモデル女性のみ。主人公の男性シンガーは、ジャケットには登場していない。それがプロデューサーの意向だった。
そのロックンロール・シンガーが、北海道の果ての高校の学園祭に出演することになった。
学校には宣伝のために作られたポスターを送った。もちろんポスターは、ジャケット写真と同タイプのもの。モデルの彼女だけが写っている。
学園祭の当日、とある純朴そうな男性の先生が、我々スタッフのところにやってきて、こう質問した。
「歌われるのは、どちらですか?」
すでにリハーサルのためにステージに上がってサウンドチェックをしている男性シンガーの方に顔を向け、スタッフが「彼です」と言いながら、アーチストの名前を伝えた。先生はさもがっかりしたように「女性の方は見えないんですか」と、下を向いて去って行った。「楽しみにしていたのに」と、つぶやくような一言を残した。
我々スタッフが顔を見合わせたのは、言うまでもない。
ジャケットの制作手法は、その音楽ジャンルと関係しているということなのだろうか。
イージーリスニングのアルバム制作が、もはや風前の灯と化しているいま、こうしたデザイン手法によるアルバムづくりは、もう今後は行なわれることは、無いのだろうと思う。(大江田信)
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