Koerner, Ray And Glover / The Return Of Koerner,Ray And Glover

Hi-Fi-Record2010-04-24

 音楽を聴くときに、それが過去のジャズの巧みな再演とわかると、演奏者にはあえて自作の才が求められないことを、ジム・クエスキンの例を持って書いた。おそらくそれは聞くもののうちで、無意識のうちに行われている行為だ。

 
 ジャズとはそういうものなのかもしれない。
 フォーク・ソングもそういうものかもしれない、と思うエピソードを読んだ。


 ボブ・ディランは、「風に吹かれて」の歌詞をほんの短い時間で書いたとインタビューで語っている。その時、頭の中で響いていたメロディとともに歌ったという。そのメロディは、カーター・ファミリーの作品で知られているもの。彼らによるオリジナル・メロディというよりも、むしろ古くから知られたメロディであり、社会共有の財産であるパブリック・ドメインと考える方が適当だろう。ボブ・ディランが師と仰いだウディ・ガスリーの歌の作り方も、古くからのメロディに新たな歌詞を乗せる、そのような方法によるものだった。



 ディランのディスコグラフィ記事のなかで、萩原健太氏が上記のような内容を記しておられた。
 フォークの世界では、こういうことはよくある。
 誰かが書いた歌詞が、歌い継がれるうちに誰が書いたのか判然としなくなり、つまりだれもが自分の思いを描いた歌と思って歌うようになる。それがフォーク・ソングの歌い継がれ方なのだ。


 
 ブルースにもそうした回路がある。
 ブルースを面白いと思うのは、歌詞が描き出す自身の風景、それは決して幸せな場面ではないことも多いのだが、そうした自分の悲惨を歌いながら、シンガーは、歌うことで自身の現実を客観化することだ。客観化することで、彼はそこから自らを引き上げる。悲惨から少しづつ抜け出していく。時には、自身の悲惨を笑うことにもなる。聴衆も、そこに同化する。
 ブルースとは、そうした行為の総体に与えられる呼称なのではないか。



 ふと思い出したのは、大学時代のボブ・ディランと交流があったミネアポリスのブルース・アーチストたちの素晴らしいアルバム。(大江田信)


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