サムライ・ニッポン(琴と三味線による日本の歌謡曲)

Hi-Fi-Record2010-05-08

 男女交際の対象がお互いに一人でなければならないという考え方は、日本にキリスト教が浸透してからのもの。聖書に姦淫してはならないと書かれていることを根拠としている。そうした考え方がモラルとして尊ばれるようになって、まだまだ100年余に過ぎない。もとより日本にはそうした考え方、また感じ方は無かった。性は謳歌されていた。君たち学生諸君も、そうしたモラルに縛られる必要も無い、授業の終りに教授が言った。そして一言、学生時代を謳歌するように、こう結んだ。



 大学に入学して受講した文化人類学の最初の授業が終ろうかというタイミング。教室に生徒は一杯で、しかもその半分くらいが女学生だった。授業の内容の一貫のように教授が言い出したものだから、どうにように受け止めればいいものか、とまどいがあったのだろう、ひとしきり教室内がザワザワっとする。



 他の教授の多くの名前を忘れてしまっているくせに、この先生の名前だけは覚えている。
 それにしても、"こりゃ、呑みの席でネタに使えるな"なんて受け流す知恵も無く、真っ正面から受け止めてしまった僕だった。喉にひっかかった魚の小骨のように、この言葉がずっと心に残った。




 教授の言うような意味で学生時代を謳歌した、と回想したいのではない。
 モラル、もっと簡単に言えば物事に対しての感じ方、無意識の身体反応のようなものは、社会の変動と共に変化するのだし、宗教の違いなど、社会それぞれによって大幅に違うものなのだというテーゼが、ずっと消えずに残ったのだ。




 音楽の場合はどうなのだろうと改めて考えるようになったのはここ数年の事で、そう思い始めると、絶えず自分の心のうちを覗き込んでいるような状況になる。今自分が感じている感性の因子はどこに起因しているのだろうと考えながら音楽を聞いていて楽しいはずはないのだが、またこれから逃れるのが難しい。


 
 このブログを始めた頃、「書く事が無くなってから、書く事が始まるんです」と松永クンに言われた。確かにそうだと思う状況に、すぐに至った。
 じゃあ、音楽の場合はどうなのか。感じる事が無くなってから、感じる事が始まるのか。それは違うはずだ。感じられなくなったら、もうおしまいだ。



 頭の隅っこでこんな事をぶつぶつと考えながら聞いているのは、これ。
 このレコード、「明らかに東京オリンピック期に、外人さんへのおみやげ企画として製作されたレコード」だと言う。
 愚直なくらいに「日本」な音楽だ。外人受けを狙っているとは思えない。ボクは、そう感じる。



 そんな風に聞くボクは、アルバムが発表された1960年代中期の「外人さん」の感性をしているのだろうか。実はボクこそが「外人さん」さんなのか。
 それとも「日本」の座標軸が、1960年代から2010年に至る間に「外人さん」方向に移動したのか。



 8割ぐらいは一緒に歌える歌が入っている。
 なんとなく口ずさんでいるボクを、刀に手をかけたおサムライさんが、横目でにらんでいる。(大江田信)



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