前園直樹グループ / 火をつける。

Hi-Fi-Record2010-05-19

 こんな本を読んでいたら、精神心理学の研究では、「音楽と言語を処理する脳の部位が違うことが感覚的に示されるようになってきている」という一節と出会った。
 同書が対象とした「音がどれくらい長さの時間の中で、どのようなまとまり方をしたら人は音楽と感じるのか」といった科学的な考察が一冊の書籍として刊行されるのは初めてのことで、どうやら画期的な本であるらしい。


 ただしここで言われる「音楽」とは、器楽音楽のことだ。「音楽」という言葉の範囲の中に「歌」は含まれていない。


 過去にこんな発言があった。
 「歌というものを,詩と,音楽の,中間のジャンルとかんがえる。両極をとって,詩はことば100%の音響効果0%とかんがえる。音楽は音響効果100%の,ことば0%とかんがえる。(中略)歌という表現のジャンルは,そんなにことばがうまくなくても,そんなに音楽がうまくなくても,ことばと音響の相乗効果で,かなりの表現力をもつといういみで,とても非専門家むきだとおもう」というものだ。
 

 片桐ユズルさんが1975年に発表した考察だ。片桐さんは、「歌は、詩でもないし、音楽でもない。だから面白い」ということを、ボクの知る限り1960年代の後半という最も早い時期から発言していた人で、ボクは片桐さんのこうした考え方から相当の影響を受けた。


 例えば自分への実験として、詩の朗読をしてみると、解ってくることかもしれない。単に詩を朗読をしているはずのことが、ついついメロディーのような、あるいはリズムにあわせて読んでいるような、そんな経験の場所にたどりつくかもしれない。出来れば友だちの前でもいい、いくつかの詩を、人前で朗読してみると、より解ってくるだろう。それは歌が始まる場所と、とても近いのかもしれない。



 「前園直樹グループ / 火をつける。」を聴きながら、こんなことを考えた。
 歌は詩ではないし、音楽でもないことに気づかせる歌には、「歌」の力が備わっていると言っていいのかもしれないと思いながら、しばらく耳を傾けた。(大江田信)


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