Chris Frank And His Orchestra / Chris Frank And His Orchestra
この6月にNHK BSハイビジョンで放送された谷川俊太郎さん出演の「NHK100年インタビュー」を、つい最近になって見た。家の誰かがビデオレコーダーのHDに録画していた。
谷川さんの詩に、「木は、木と名付けた瞬間に、木では無くなってしまう」といった趣旨を語る作品がある。
谷川さんの詩についての考え方の多くが述べられていて、大変に興味深かったこの番組でも、こうした谷川さんの言葉と実態を巡る考え方が話題に上った。
この詩の感じは、わかる感じがする。
大いなる時間を生きてきて、太く幹をのばし、枝を広げている木に直面しながら、「木」という言葉を使って表現をしようとすればするほど、表現できない何かが残ってしまう感じ。
大いなるものを対象にすればするほど、その表現しようとする実態と言葉にずれが生じてしまい、じつはそのずれに中に何か大切なものが潜む気がするという感じ。こうした経験は、誰にでもあるのではないかとも思う。
谷川さんのこの詩が面白いところは、木と名付けた瞬間に木ではなくなってしまうほどの大いなる「木」がある、という表現を成立させてしまうところ。パラドックスを逆手にとって、「木」のゆえんを表現してみせる。
そして、同時に「名付ける」ということの意味を問うてもいる。
「名付けられないもの」は、「名付けられないもの」のままであっていいのではないか、とも読み取れる。
司会者との一連の会話を聞きながらふと思ったことは、歌の場合のこと。
歌は、すでにそこにあるもの、ではない。歌とは、歌われながら歌になるものなのではないか、と思ったのだ。
誰かが歌い、また誰かが歌い、そしてまた誰かが歌うことで、そしてそれらを聞くことで、時には自分が歌うことで、歌は「歌」になっていく。成長したり、広がりを得たり、ヒットしたり、深化したりする。
ぼくらはそうしたことを、無意識に山ほど経験しているのではないかと思う。
カラオケ、CD、ライヴ、鼻歌、ラジオ、ダウンロードなどの言葉も、「歌が歌になって行く」プロセスと関連づけながら、語れるのではないかと思う。
例えばクリス・フランクが歌う「Honeysuckle Rose」。
どこかで聞いて知っている「Honeysuckle Rose」。その「Honeysuckle Rose」との違いや同一性をなんとなく感じながら、ぼくらはクリス・フランクの歌う「Honeysuckle Rose」を聞く。
歌っているクリス・フランクもまた、もちろんどこかで聞いて「Honeysuckle Rose」を知って、その体験をもとに自らの独自性を盛り込みながら演奏している。
クリス・フランクも、僕らも「Honeysuckle Rose」を巡る地図と歴史のどこかに参加している。
歌が歌われるとは、例えばこういうことなのではないかと思う。(大江田信)
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