Bo Conrad Spit Band / Primer

Hi-Fi-Record2010-07-14

 先日、お送りしたメルマガに、レコード探しにはケモノ道を歩くようなところがあるのかもしれないと記した。
 メルマガをお読みになっていない方のために引用させていただくと、こんな具合。


 そういえばレコード探しにも、それとはないケモノ道があります。口伝えに伝えられたり、ミニコミに取り上げられたり、ネットのブログで熱心に語られたりしているレコードを追い求める。決して評価の定まったレコードではない、あるいは評価などとは縁遠いレコードをいっぱい聞く。そうして道無き道を歩いているうちに、音楽を聞く耳が鍛えられていったりという経験、ハイファイのお客様たちだったら、皆さんお持ちでしょうねえ。


 メルマガを読んでおもしろかったとお客様より、メールを頂戴した。
 そういえば下さった方に、まだ御礼のメールを出していなかった。この場を借りて、御礼します。
 メールをありがとうございました。とても嬉しく拝読しました。



 いただいたメールに、"ケモノ道を歩いているのはハイファイの買い付け部隊"との意の一節があった。
 先日の松永クンのブログを読んでいるうちに、買付の時の気分が甦って来て、ああ、そうかもしれないと不意に思った。


 すでに世に評価のあるレコードや周知のレコードを見つけて喜ぶというよりも、誰も知らないレコードを見つける方が何十倍も嬉しい我々ではある。
 もっと簡単に言えば、買付中の相棒、つまり松永クンの知らないレコードを見つけた時の方が、ダンゼン嬉しい。
 子どもですね、子ども。自分だけの宝物を見せびらかす、あの感じ。
 そんなことがエネルギー源になっているのかと笑われても、事実なのだからしょうがないのだが、これがまた試聴時の態度とも関係しているのかもしれないと思う。



 作詞家の友人が、こんなことを言っていたのを思い出す。
 走り書きをするための準備用のメモ・ノートを持っていて、それが一杯になったら捨てる。
 まさか? もったいない。とって置けばいいのに? と聴いたボクに彼が返した答えはこうだった。
 ノートが無くても詩が書ける自分でいたい。ノートを捨てられる自分が嬉しい。それは、いつでも詩が書ける自分でいる事だから。
 う〜んと、ボクはうなった。


 今では、その感じが解る気がする。
 レコードを買付けるのは、僕らの耳だ。仮にカタログやその筋の本など予習用にあったとしても、最終的には僕らの耳がレコードを買付けている。
 この耳が機能しなくなったら、買付に行く意味が無い。
 耳が一人でケモノ道を歩き出したら、最高だ。
 こうして東京いるときでも、自分の耳が何かをクンクン探し始めると、ああ、そうか、ボクもまだまだ買付にいける自分でいるのかなと思う。



 これは、その耳が見つけたレコードの一枚。
 愛おしい一枚でもあります。(大江田信)
 

試聴はこちらから。