Buddy Emmons バディ・エモンズ / Steel Guitar

Hi-Fi-Record2011-01-18

 久しぶりにクラシックのコンサートに行った。


 メインのプログラムは、ヴァイオリンの前橋汀子さんの演奏するメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調(俗にいうメンコン)だったのだが、僕がとても面白く聞いたのが、第一部の終曲に演奏された遠藤真理さんによるチャイコフスキー作曲の「ロココの主題による変奏曲」。


 つつましく品のいいロココ調の主題フレーズ(チャイコフスキーが書いた)をチェロに変奏(いわばアドリヴ)させる。当初はたおやかにメロディを演奏しているチェロに、ありとあらゆるテクニックを過酷なまでに要求し、執拗までにチェロ奏者を追い込む様を聴きながら、まるで羊の仮面をかぶったオオカミのような曲だと思った。もちろん羊たちが並ぶ演奏を聴いていても、退屈するだけなのだけど。チャイコフスキーのオオカミぶりと、それに屈しないチェロ奏者の拮抗ぶりがなんとも凄まじい。


 それにしてもと改めて思ったのが、こうしたクラシックのソロ演奏家というのは、まるで運動選手のようでもある。ガッと大きく足を開いて、そこに楽器を挟み込むように座って弓を弾く様からして勇ましいし、肩が大きく露出するドレスを羽織っていたために、遠藤さんの腕と胸の筋肉がムキムキと動く様も目に入った。音の大きさや激しさと、体の動きがそのまま直結している。
 これは前橋汀子さんのヴァイオリンの時にも感じたことで、クラシックとは体力があっての音楽なのだろう。


 それにくらべてマイクロフォンを使うことが当たり前となっているポピュラー音楽においては、情熱的な演奏と音そのものとの関わりが、いまひとつ見えにくいことがある。理解されにくい楽器、そして視覚的な楽しみの少ない楽器の代表格といえば、スチール・ギターではあるまいか。高揚するフレーズに行き当たっても、プレイヤーは演奏しながらのけぞることもできないし、体を上下左右に振ることもできない。なにしろ聴衆からは、手元が見えない。座って弾いている姿だけ見れば、冷静に数字を計算をしている人にも見える。そのくせ、ものすごく深い音を出す。高田漣クンの演奏を見ていると、いつもそんなことを思う。


閑話休題。スチールが演奏するパッヘルベルの「カノン」をどうぞ。


(大江田信)
 

試聴はこちらから。