The Baby Sitters ベイビー・シッターズ / Family Album

Hi-Fi-Record2011-01-25

 ここ半年ほど、録画をしてずっと見ていたテレビ番組があった。
 NHKのBS2で放送されているクラシック・ミステリー「名曲探偵アマデウス」。
 

 筧利夫黒川芽以の二人による探偵事務所に、クラシック音楽にまつわる相談事が依頼者からもちかけられ、それを解き明かすという内容。時代がかった筧利夫の演技も、他愛も無い謎解きのストーリーも、それはそれとして面白く見ていたはずなのだが、靴の中の小石のようにどうも気になることがある。


 例えばレスピーギの「ローマの松」を取りあげた回。この曲では、イタリアの子供たちが幼い頃から口ずさんできた童謡のメロディが、テーマとして用いられる。イタリア人の体の中に自然に潜んできたフレーズが、レスピーギのクラシックの技法で料理される。


 この童謡のメロディの扱いに際して解説者は、レスピーギが童謡のメロディを「取り入れた」という表現を用いた。これに激しく違和感を感じたのだ。
 クラシックというオトナの音楽に新鮮味を加えるかのように、コドモの調味料を加えるかの用に、「取り入れる」という言い回し。
 作曲家とは、幼少時の記憶に残るメロディを「取り入れ」ながら、作曲するものなのか?


 ボクの違和感の理由は、童謡を含めた伝統的な音楽が「取り入れ」られるものとして存在するのではないと、信じているからだろう。
 高度な技術を持って、どのように音楽を洗練させようとも、そこには伝統音楽の大いなる広がりの上に、新たな音楽は組み立てられる。
 ましてや童謡のメロディ、あるいは童謡に潜んでいる音楽感覚やリズム感覚と言うのは、あらゆる音楽の大いなる源泉となることがある、とボクは信じている。


 例えばバッハの時代はこうだったとか、ベートーベンやドヴォルザークの場合はこうだったとか、浅学な知識を持ちだすつもりは無い。
 こうした言い回しを用いて、どこかしらクラシックの優位性を潜ませる解説者の口ぶりに、嫌気がさした。なにしろこれが初めてではないのだ(筧利夫黒川芽以には、責任は無い。くれぐれも)。
 そんな気持ちが沸々と湧き出てきて、番組を見るのを止めた。これまで撮りためた録画も、すべて消した。

 
 現代における「伝統音楽」という言葉の中身については、もっと考えなくてはいけないだろうと思う。音楽の伝わるスピードと広がりや方法の多様化のなかで、「伝統音楽」がどのように変質するのか、あるいはしないのか。
 音楽伝統の変質は、衣装や食事にくらべてはるかに遅く、人々のしぐさや言葉と同じようなスピードをたどるのではないかというのがボクの推論だ。つまり、変化は遅い。


 そして、それくらいに無意識な場所のものと響き合いながら生まれ育まれるのが音楽であり、童謡はそうした無垢の表出でもある。
 人は童謡を「取り入れ」たりしない。童謡に育まれるのだ。


 アメリカのコドモの歌に光を当てたアルバム。
 アメリカのフォーク・ムーヴメントには、こんな一面もあった。(大江田信) 


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