John Miller ジョン・ミラー / How About Me

Hi-Fi-Record2011-02-04

 松永クンのブログを読みながら、思ったことを書き記しておきたい。


 彼がここで書いている内容について、要約しても巧く意を伝えられるかどうか。興味をお持ちの方は目を通して頂いたとして、この後を続けることにする。


 文中に、
「自分でこさえた屁理屈を無理矢理飲み込んで
勝手に納得したそぶりのぼく」
という一説がある。


 前後の文意から、苦い思いと共に吐き出されている言葉だと解る。記された事実経緯を含め彼の気持ちを充分に飲み込んだ上で、この文意は音楽を聞こうとする者にとって、実は最後までつきまとう恐れにも似た気づきでもあると、記したい。


 伺い知る事実を積み重ねて音楽を聞き取るのは、それはそれでいいだろう。
 しかし大切なことは、想像力だとボクは思う。
 解りやすく言えば、片想い力と言い換えてもいい。


 説得力のある片想い力に満ちた理屈にかけては、松永クンは天下一品である。
 「ハワイになじめずにこんな店まで流れ着いたぼくと、
このアルバムでカントリーをやろうとしたが
結局一枚限りで決別したディランを
似たような境遇だと見立て」
た松永クンに、ぼくは
「ディランはジョニー・キャッシュを心から敬愛していたし、
 ナッシュヴィルの音楽に違和感を感じていたりはしなかったはずだよ」
と言ったのかもしれない。
 しかしボクは、松永クンの文章に思いっきり気圧されていたはずだ。


 かつてカントリー音楽は、ロックが唾棄すべきオールド・カルチャーだと思われていたし、なにしろそんな気分がまだまだ残っていた時分に、二人がしていた会話である。今にしてこそダメなカントリー(?)と、そうではないカントリーとがあることは解る。いや、カントリーをダメにしてしまっているアーチストや聴衆もいる、と言った方がいいのかもしれない。カントリー音楽そのものには、何の罪も無いのだし。


 片想い力には、音楽を自らの血肉とする力がある。
 事実のみを羅列し、したり顔をして音楽を聞き取ったかに装っている文章は、音楽を真剣に飲み込もうとする者には無益だ。
 事実の誤認はもってのほかだし、音楽について文章を書こうとする以上、言葉に責任を持つ必要があるのはもちろんなのだが。
 ぼくたちは、どこまで行っても音楽と両思いの関係は持ち得ない。


 そんな気持ちで続きを読んでいると、
「なぜか気になるレコードというものは
どこかしら自分にとっての鏡みたいなところがある」
とする一説に行き当たる。
 そう、それが極意とボクは思わず膝を打った。
 

 真実に満ちた片想い力を感じたい。音楽を聴いている心の中に、音楽は宿っている。そういう風にして書かれた音楽の文章を読みたいと思う。
 もう一度書く。説得力があり、力強い片想い力に満ちた理屈にかけては、松永クンの文章は天下一品である。


 ブルージーかつジャジーなフィンガーピッキングと、気取らず、しかし洒落た歌。周囲がひれ伏すほどの抜群のギターテクを持ちながら、どうしてたいして巧くもない歌を、人は歌いたくなるのでしょう。そしてその結果彼の肉体を通過した歌は、唯一無二のものになります。


 ジョン・ミラーのアルバムに寄せられた松永クン執筆のこんなコメントを読んで、ぼくは楽しく笑った。(大江田信)