佐井 好子 / 萬花鑑

Hi-Fi-Record2011-05-06

 春一番が終わって、京都に立ち寄った。格別に何をするという訳でもない。街を歩いて珈琲を飲んで一休み、また街を歩いて、夕方になったらちょっと一杯という一日を過ごした。


 で、どの店で飲ったのかというと、四条河原町からほんの少し裏道に入ったところにある「静」という居酒屋。「静」と書いて、「しずか」と読む。入り口のたたずまいから高級な料亭と見まがう向きもあるらしいが、実は大衆酒場だ。店の壁の所かしこにいたずら書きがしてあり、それらを補修することもなく、そのままにしていることでも有名だと言う。


 引き戸をガラガラとあけると、中は満員の様子。ちょっと待ってと老齢の女性に言われるがままにしていると、我々のために四畳半程の小部屋が用意され、二人連れで上がり込む。女性スタッフに座布団を勧められる。
 確かに、壁には落書きだらけだ。ナイフで彫り込んだものまである。誰が誰を好きだというお決まりの書込みや、草食男子でどこが悪いといった鬱憤が見事なまでの草食文字で書かれていたり。目に留まったのは、佐井好子とだけ書かれた文字。大学時代をこの街で過ごしたシンガー・ソングライターの名前だ。


 「静」を訪れてみたかった理由はといえば、答えは高田渡さんにたどり着く。
 坂庭省吾さんが亡くなったのち、生前に坂庭さんが大切に弾いていたギターを、渡さんが預かることになった。ギターというのは、そのままにして放置しておくよりも、誰かに弾いてもらっていた方が音が良くなる。だったら坂庭さんと親交が深かった渡さんに預かってもらおうと、スタッフが思いついた。
 そのギターを受け取る際に、渡さんが希望した店が「静」だった。
 渡さんは二十代前半の数年間を、京都で過ごした。キャリア初期の歌の多くは、京都で生まれた。そして東京に戻っている。
 ギターを受け取りながら渡さんは、「こういう店が好きだったんだ」とつぶやいたという。


 スコット・フィッツジェラルドの足跡をだどる旅を記した本で、村上春樹は自身の旅のことをピルグリメイジと書いた。日本語に訳す歳には、巡礼という言葉が与えられる英語だが、もう少し軽くて気楽な翻訳語でもいいかもしれない。
 ぼくらはアサリの酒蒸しをつまみ、殻を別皿に入れながらビールを飲み、誰もが頼むという卵焼きをつつき、渡さんが好きだったという店の空気を吸って、外に出た。客は長っ尻で、声高にしゃべりながら酒を飲んでいた。声高な議論が騒がしく交わされていて、いかにも学生酒場という雰囲気だった。観光客は僕らだけだった。千円札を2枚手渡して、百円玉が数枚帰って来た。そんな勘定だった。渡さんの足跡をなぞる、ぼくのピルグリメイジ。


 1975年の佐井好子のデビュー・アルバムがこれだ。
 一人の女性の個人史であると同時に、一つの時代を封印している作品集とも思う。初めて聞いたときから、なぜかそんな気がした。かつてはよく針を落としたが、今になってみると浦島太郎が竜宮城から持ち帰った玉手箱のようにも見えて、手を出すのが少し怖い。(大江田信)


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