Gabby Pahinui Hawaiian Band / Gabby Pahinui Hawaiian Band
このところギャビー・パヒヌイのことを調べていた。
といっても、そんなに豊富に資料を持っているわけでもない。ピーター・ムーンを傍らにインタービューを受け、それが他の同時代のアーチストと一緒にまとめられている本がある。本人のコメントが読める。
ギャビーは、1972年にソロ・アルバムを発表する。制作したのは、レコード・ショップでアルバイトをしていたスティーヴ・ジークフリードら3人の若者たち。これがギャビーの実質的な初ソロアルバムとなった(1962年にデイヴ・ガードによって録音されたアルバム「ピュア・ギャビー」は、この時点ではお蔵入りになっていた)。
ライ・クーダーの妻、スージーが、72年発表のアルバム「ギャビー」をアメリカ本土に持ち帰り、これを聴いたライが、ハワイのギャビーのもとに日参する。
こうして二人の交遊が始まり、そしてこのアルバムの制作につながった。
ハイファイのサイトで紹介しているのは、パニニが制作した音源を、ワーナーが借りる格好で製造されたレコードなので、サイトでは二つのレーベルが併記してある。マスター・テープの権利を持っているのは、パニニ。数年前までは学生だったスティーヴをはじめとする若者たちのビジネスが、驚くべき事にワールド・ワイドの広がりを得た。
この数年あとに行われたインタービューだ。この頃のハワイでは、ギャビーは生ける伝説と呼ばれ始めていた。
彼は、これにとても違和感を訴えている。
自分は単にミュージシャンとしてベストを尽くしただけだと述べる。なんだか少し苦しそうにも読み取れる。
ギャビーは16歳の頃にスタートしたプロ・ミュージシャンの最初期には、ジャズを演奏していた。そののちにハワイアンを演奏するようになると、そのふたつを不用意に混ぜ合わせる事を避けて来たと、同じインタービューで述べている。
ハワイアンにはハワイアンの方法があり、ジャズにはジャズの方法があるという。
商業性の強い50年代のハワイアンがジャズの要素を取り入れながら生き延びて来たのは、事実である。そのように作られた疑似ハワイアンもある。
ジャズの内実を持ちながら、ハワイアンの顔をして演奏される音楽は、ギャビーの視野に入っていただろうし、そうしたハワイアンと棲み分けをする意図を持ち、それを表明する発言だとすると、とても興味深い。ギャビーの音楽観を、意図せずして示唆する言葉でもある。
同じインタービューにおいて、ギャビーはポール・マッカートニーの作品を、手放しで誉め讃えている。ほとんど感嘆するかのような口ぶりだ。
共演の経験もある山内雄喜さんによれば、ギャビーはビートルズのナンバーを演奏していたという。気楽にセッション風にして録音されたギャビー・パヒヌイ・ハワイアン・バンドの未発表音源に、ビートルズ・ナンバーがあったとしたら、とても楽しいだろうなあとあらぬ想像をしながら、ハワイの風吹く音楽を楽しむ。(大江田信)
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